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【読書274】漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」

漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」」(小島剛一/旅行人/水戸市立見和図書館所蔵)

 

「トルコのもう一つの顔」が旅行記、フィールドワークの記録としての側面を持っていたのに対して、随分と政治色の濃い一冊であった。トルコに事実上存在していながら、決してトルコ政府は認めようとしない、 諸民族、諸言語の研究、そしてその成果の出版や文書の発表を巡り、トルコ政府高官、役人、場合によっては味方であるはずのクルド人青年や共同執筆者との戦いに終始する…、見方によっては振り回され続けるのが本書である。

 

言語学者であるから、発音やアクセントへのこだわりが随所の脚注にみられる。日本語の「オスマン」は「オスマンル」、「シュメール」は「スュメル」が実際の発音に近いなどに始まり、「イズミール」ではなく「イズミル」ではないか、など。

スゥメルに関しては、日本でのシュメール研究初期に「皇(スメラ)だから、天皇家シュメール人だ!」などと言い出す輩がいたために、あえて「シュメール」という表記にした、という話を読んだことがある。

現地での発音そのものが正しいとは限らないし、全てではない。現地での発音はこうであるが、日本語ではこう、という風に理解するしかないのが言語なんじゃないかと思う。

脚注とそこに示される皮肉に、なんとなく筆者の頑なさ、偏屈さを感じてしまった。

 

日本人(はたして、在フランス歴の方が長いであろう筆者が日本人的であるかは別として)の視点でみると、本作のトルコ人というのはずいぶん無茶苦茶な国民である。西洋的な意味ではモラルのレベルもとても低いし、教育のレベルも残念な感じだ。

思い込みは激しいし、事実を平気で捻じ曲げる。

前作が、トルコ人、多くはクルド人やザザ人であるが、彼らの優しさをポジティブに捉えていただけに、本作でネガティヴな面ばかりが目につくのは残念である。

タイトルから、「トルコのもう一つの顔」の続編、同じような学術的な紀行文を期待して読むと、残念な思いをするだろう。

全く別の、トルコの民俗学言語学における現状、出版におけるレベル、あるいは政治的な状況を、学者の目で批判した本、としては楽しめるのかもしれない。

残念ながら私は前者であった。