心ゆくまで崖っぷちで読む本

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【読書327】探検家の日々本本

 

探検家の日々本本

探検家の日々本本

 

 

探検家でありノンフィクション作家、角幡唯介さんのエッセイ集。

タイトルから連想されるような書評集、読んだ書籍の紹介本ではなく、読書をテーマにしたエッセイ集であり、内容は取り上げる書籍のことだけにはとどまらない。

内容は本人がブログで語っていた通り、「読書にかこつけて自分のことを語ったエッセイ」と呼ぶほうが正確であろう。

とはいえ、彼の思考はいつも、最後は山や探検へ結びつく。

気になるのは、筆者にとって読書とはいったいなんなのだろうか、ということである。

いい読書にはタイミングというものが重要だ。

これは読書に限らない。

彼のライフワークたる探検も、食事ひとつとっても、すべてにおいて大切なのはタイミングなのではないかと思う。

たとえば、筆者が新聞社を退職するタイミングが、一年遅くても早くても、彼は雪男探しのメンバーには加わらなかったのではないだろうか。

読書という観点からは、タイミングが記憶への定着性を左右しており、有意識下か無意識下かにかかわらず、記憶へ定着したか否かがその後の人生へ作用する。 しかし彼はかくも語る。

人生をつつがなく平凡に暮らしたいのなら本など読まないほうがいい。 しかし、本を読んだほうが人生は格段に面白くなる。

「平凡」と「つつがなく」必ずしも一致するものではないし、読書にそこまでの価値を感じられるだろうか。

本を読まなければ探検家を志さなかったのか、つつがなく暮らせたのか、読書をしたとしても、平凡につつがなく暮らす例の方が多いだろうし、非凡に暮らす方々が読書マニアばかりというわけでもあるまい。 そこまでのことを記すに、筆者こそが「読書が人生を面白くする」と信じているのである。

下手をすると誤読しているケースもあるだろうが、しかしこと本を読むことに関する限り、私は誤読を恐れない。たとえ著者の意図とはことなるものであっても、読み手の感性と共鳴するものがあれば、それは読書としては成功だからである。

書き手の意志など無視をして、読みたいままに読む読書。 読書自体、主観的行為であるから、誰の読書にもこういった側面はある。

一方で、彼の作品を読むと、書き手として、できるだけ客観性を保とうとしているように感じる。 読み手として誤読を恐れない姿勢と、書き手として主題に対して誤解のない文章を書こうという姿勢。

こういった姿勢は読書日記でわざわざ資料の信頼性を言及している点にも現れている。 客観的に記そうとする書き手としての態度、誤読であっても構わないという読み手としての姿勢。

そこになんとなく矛盾を感じてしまう。どちらも間違いではない。だけど、書き手として客観性を保とうと思ったら、資料を都合よく解釈しても良いという見解を持つことは、認められない。 書評としての、読書日記としてので同じ作品が掲載されていること、それぞれが全く違う内容であったとしても、手を抜いてページ数を稼いでいるように見えてしまう。 また、己の著作や著作するにあたっての参考資料についてが随所に盛り込まれている点が、すでに彼の作品を読んでいる身にとっては裏話というよりは焼き直しに見えてしまった。 それだけ印象的な経験であったのだろうと思うのと同時に、それ以外の、日常の思考を垣間見たいという気持ちが満たさず、消化不良な気分が残った。