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【読書332】ミャンマーの柳生一族

ミャンマーの柳生一族 (集英社文庫)

ミャンマーの柳生一族 (集英社文庫)

 
「どこか遠くにミャンマーっていう国があるらしいが、おまえ、知ってるか?」

なぜ、彼らの旅はこうも唐突なんだろう。

船戸与一の取材旅行に同行するという名目で同行することになった行き先はミャンマー

筆者は、鎖国状態だったミャンマー密入国を繰り返すこと8回。アヘン地帯に対する著作を出版し、それが翻訳されて海外展開された経験あり。

同行取材、ガイド役どころか、ミャンマーに正規に入国することがまず難しいと目される人物である。

ドキドキのビザ申請、入国審査を経て、入国に待ったがかかったのは、まさかの誘い主、船戸与一の方だった。

ミャンマー、正直、この国に対しては「ビルマの竪琴」くらいしか知識がない。

幕府の軍は一兵たりとてワ藩に足を踏み入れることはできず、一般のミャンマー国民は恐ろしい噂しかないワ藩へ誰も来ようとしないとはいえ、スーパー外様藩の住民の独立ぶりというか孤立ぶりはやはりハンパではない。

 ミャンマーといえば悪名高き世界最大のアヘン生産地、ワ州がある国である。ワ州の状況はミャンマー国内でも悪いうわさで鎖国されている異国のように扱われていた、というのが非常に面白い。

鎖国の国に生まれ育ち「外的要素」から隔離されている彼らのほうが、いつでも自由に外国へ旅行に出かけられる日本人や他のアジア人より外国人慣れしていて、しかも気の利いた即興のやり取りがうまい。
ある意味では、日本人の悲願である「国際人」をすでに達成しているとも言える。

 鎖国の中にあっても多民族国家であることが、国際人たらしめるというのは面白い。国際感覚という面から必要なのは近くに「異文化」が存在するということなのだろうか。

ミャンマーでクリスチャンというのは、たいていが少数民族だから、宗教問題と民族問題がセットになるのだ。民族と宗教の多様性、これこそがミャンマー人の国際性を養っているのではないか。

どの国であっても宗教問題と紛争はセットになっている。宗教は民族に根付いているし、場合によっては信じる神が文化を分け、民族を分ける。

同じコミュニティの中に利害の一致しない複数の宗教がある。それはもう紛争が起こる因子そのものといえよう。

近くに「異文化」があり、平和な日常生活を送るためにはその文化同士が紛争にならない、双方が不満を感じない、「あり得ないバランス」が必要な場所。

それが「国際」というものの本質なのだとしたら、国際感覚がないといわれる「日本人」は実に幸せな国の住人であるような気がする。

 

そもそもミャンマーの柳生家というのが突拍子もないし、旅行記の中で急に脈絡もなく徳川家たとえ話に移行するしで、えええ?と思いながら読んだのに、読了後には何となくミャンマー情勢が理解できた気がしてしまったから不思議である。エンタメ系ノンフィクション恐るべし。

ちなみに、 高橋さんの著作で一押しはどんな海外物よりも国内にある外国人を扱った「移民の宴」だったりする。

そして、「ブルガリアの薔薇」のインパクトが強すぎて、「ゲイに口説かれた人」という印象が何を読んでもついて回る。