心ゆくまで崖っぷちで読む本

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【読書305】ロードス島攻防記

ロードス島攻防記」(塩野七生/新潮文庫)

 

ドルチェと呼ばれるほどの甘い気候、薔薇の咲き乱れる古代文明の気配を感じる島、ロードス。

エジプト・シリアを手中に収めたトルコにとっては内海と呼べる東地中海に位置しながら、キリスト教の宗教軍である聖ヨハネ騎士団が統べる島。

1522年。大トルコの若き三代目スルタン、スレイマンは、ついにロードス島の攻略戦を開始する。

 

ロードス島に、聖ヨハネ騎士団の欠員補充としてやってきた、先代の騎士団長の甥であるアントニオは、美しい騎士と出会う。

折しも、ロードス島攻略戦の直前のことであった。

アントニオは、これほど美しい造形物を、これまで見たことはなかった。(25ページ)

亜麻色の髪に、薄い青灰色の目、浅く日焼けしたその騎士の名前はオルシーニ。

ある宗教において、美しい、というのは、それだけでとても価値のあることだという。なぜならば、神が美しく作ったのであるのだから。

 

僧籍に属する騎士団にあって、素行に問題ありとされながらも、家柄、聡明さとも申し分のないオルシーニは、正に神の恩恵を受けて生まれた者であった。

 

「人間には誰にも、自らの死を犬死と思わないで死ぬ権利がある。そして、そう思わせるのは、上にある者の義務でもある。」(130ページ)

オルシーニのセリフは印象的である。

大国主義に移行する直前、数よりも質が物を言うと考えられていた時代である。

貴族であり騎士であり、上にある者である彼は、ロードス島の置かれた状況、騎士の置かれた状況を肌で感じていたのだろう。

滅びゆく階級は、常に、新たに台頭してくる階級と闘って、破れ去るものなのだ(148ページ)

コンスタンティノープルの陥落」では、ビザンチン帝国、という長い歴史を持つ国、そして老齢の帝が、若い国、若いスルタンに倒された。

そこには正に、滅びゆく階級と新たにに台頭してきた階級の戦いがあり、ビザンチン帝国は正しく滅亡した。

しかしロードスはどうだろうか。

オルシーニの語るように、騎士、という身は確かに滅びゆく階級に属している。一方で、闘いに身を投じた騎士達は年若く、対するスルタンもまた若い。

そのせいか、篭城という状況であっても雰囲気は明るく、子供同士のちょっとした喧嘩のような、無邪気さを感じた。

 

イスラムの彼らが、降伏の時ですら甲冑を纏い威風堂々と馬にまたがる騎士達を、呆然とみつめたように、騎士らもまた豪華絢爛なテント、衣類、スルタンらの話すギリシア後に唖然とした思いだったのだ。

このごく素直な「すごい」という気持ちだけで、お互いに接しあえたら、違う未来があったのかもしれない。

しかし500年を経た現代でも、両者の溝は埋まらぬままである。

 

***

 

もう一つ、書評とは違うが、とても印象に残ったシーンを。

 

1187年、イェルサレムが再びイスラム教徒の手に帰してからの、パレスティーナの十字軍勢力存亡を期する数々の戦闘では、キリスト教徒を地中海に追い落とすことこそアラーの神の意志であり、ゆえにそれを実現する戦いはすべて聖戦と信じて向かってくるイスラム教徒の狂信に対し、同じたぐいの精神で立ちはだかったのは、宗教騎士団の騎士たちであったのだ。(33ページ)

 

イスラム国」という表記には反論が多く、実際に「イスラムを名乗るテロ組織」が実情と言われている。

彼らの信じる「神」がなんであれ、否、彼ら以外の存在であっても、狂信をもって向かってくるのであれば、我々はどのように対抗すべきなのだろうか。

同じように信念を持って、守護してくれる「騎士」はおらず、自らが「騎士」として振舞うことはもちろんできない。

答えの出ない問答であるが、繰り返さずにはいられない、そんな気分である。