【読書336】世界の露店
露店、屋台…店舗を持たない営業系統。
露店は人々の暮らしそのものであると思う。
【読書335】エンジェルフライト 国際霊柩送還士
久しぶりに図書館に行くと、読みたかった本が続々発見されて困ります。
海外で死亡した際、その遺体はどうなるのだろうか。
現地で荼毘に付されて遺骨・遺灰となって移送されるか、航空機で遺体のまま搬送される。この遺体の運送を取り扱う、国際霊柩送還を請け負うのが「エンジェル・フライト」という小さな会社である。
彼らの仕事は大きく二つ。一つは遺体の国際輸送に伴う煩雑な手続きを代行すること。
もう一つは、遺体へ修復・防腐処理を施すことである。
悪条件の中の遠距離輸送、航空機の貨物室という特殊な環境下での輸送を経て、遺体は、家族のもとへたどり着く時にはひどい損傷を受けているという。
彼らはそんな遺体にエバーミングと呼ばれる防腐処理・修復処理を施し、死に化粧を施し、着衣を整える。
家族が再会する瞬間を、安らかなものにするために。
損傷をうけたご遺体を、生前の、きれいな姿にする。
そのままの姿を見たい、と思うのも人の心だし、きれいな姿できちんとお別れしたい、というのもやはり人の心だろう。ご遺族の意向には基本的に従うもののとしているが、本書を読む限りは出来る限り修復処理を勧めているように見える。なんだか非常にエゴイスティックな行為だと感じた。
それは彼らの経験上、なのかもしれないし、彼らの信念上、なのかもしれない。
痕跡の無い死は実感しにくい。
何かと対面しなければ、行方不明なのではないか、どこかで生きているのかもしれない、という気持ち、未練が残る。
対面しても、嫌悪感を抱いてしまうような状態では、己に対して遺恨も残すだろう。
幾度も抵抗感なく邂逅できること。あわただしいスケジュールの中で、十分に「もう十分だ」と思えることがその後において非常に重要な位置を占めるのではないか。
我が国では近年プライバシーへの配慮が進み、死は究極のプライバシーとして人の目から遠ざけられることとなった。それは同時に、正しい知識や判断力を我々から奪う。日本で亡くなった外国人の遺体は、どこでどんな扱いをされるかわからない。(24ページ)
この一方で、外国で亡くなった日本人の遺体は、どこでどんな扱いをされるかわからない。なんとなく逆説的だ。日本人はどちらかというと、遺体を非常に大切にする文化を持つが、他人の宗教に対して寛容であっても無理解だ。
西欧人と日本人の遺体に対する価値観の違いは「墜落遺体」にも言及がある。遺体を「ご遺体」と呼び、その帰還を待ち続ける日本人と、そうして必死に特定した遺体についても、遺体の帰還をとくには望まないという西欧人。
本書は「エンジェル・フライト」を取り扱ったノンフィクションであるが、ノンフィクションとするには筆者のかけるフィルターが厚く感じた。読み口はエッセイに近い。
冷静な目で、一歩引いてみるには、重い仕事であったのかな、と思う。
【読書334】帝国の女
久しぶりの図書館本、久しぶりの宮木あや子さん。
「野良女」のセルフオマージュ的作品かな、と思う。
「野良女」が同じ大学の出身者、同年代という共通点で結ばれていたのに対して、本作は「帝国テレビジョン」というテレビ会社を通じてつながっている。
このため、本作の主人公となる女性たちは野良女よりも広い年齢層、広い職業となっており、世代を超えた友人、というか、仕事上ちょっと関係のある人たちという描かれ方をしている。共通するのはみんな激務であるということ。
宣伝、製作、脚本家、記者、そして付き人。美人だけど絶望的に男性に対して鈍かったり、芸能人に命を懸けていたり、わけありだったり。それぞれの立場で、限界まで働きながら、プライベートに悩む女性たちを描いた連作集。
「野良女」エピローグとして焼肉女子会が設定されているところまで一緒で、率直に言えば焼き直し感が強い。しかし、残念ながら、作品としての出来は「野良女」の方が上である。
「野良女」の面白さは誰もが好き勝手にやって、自業自得で苦しくて、だけど前向きなハッピーエンドというところにあった。彼女たちの悩みは自分の近くにもあって、それがリアルな面白さにつながっていた。
だけど、本作は人物設定も、非常に特徴的な人物像で、驚くほどリアリティがない。かといって、漫画的人物像たちが繰り広げる魅力的なかけあいがあるわけでもない。
おそらくは、バイタリティあふれる仕事に打ち込む女性が、ぽっきり折れる瞬間を書きたかったのかな、と思う。
たとえば忙しさにかまけて彼氏に振られてしまった時。きたない手を使ってでも手に入れたいと望んだ男性と離婚すると決めた時。あるいは、けがに倒れ、商品であったはずのアイドルの卵に告白された時。
「忙しい」や別の何かを言い訳に、目をそらし続けていた現実に向き合わなければならなくなる一瞬。そして、向き合えなくなる一瞬。
出来る女で成功者である彼女たちは自制心をもって、自分の感情を処理していく。激務に耐えきれる心身のタフさを併せ持つ彼女たちは、肝心のところで間違ったりはしないし、醜態をさらしたりはしない。それは働く女性が求めるヒーロー的女性像なのかもしれないし、独身女性としての矜持なのかもしれない。
だけど、少なくとも私は、完璧超人が壁を軽々超えるだけの小説には面白味を感じない。
忙殺されて結果的にしてしまった選択ではなくて、きちんと自らの意志で天秤にかけた時に、彼女たちはいったいどうするんだろうか。
ぽっきり折れて、醜態をさらしてほしいと思うのは、仕事で成功していない女性の醜い嫉妬なのかもしれない。
【読書333】「住宅ローンが払えない! 」と思ったら読む本
住宅の購入予定があるわけではないのですが、住宅の取得に興味を持った今が勉強するチャンス、というわけで図書館で借りてきました。
本書によると、住宅ローンを払えなくなったときに自己破産や住宅の売却を避けるためのポイントはふたつあるという。
また、本書では、ローンを焦げ付かせてしまう一番大きな原因は「景気の状態である」としているが、住宅ローンという非常に大きな借金を背負う場面では、景気の動向に左右されない、収入減少や環境の変化にも耐えうる家計計画を立てる必要があると感じた。
【読書332】ミャンマーの柳生一族
「どこか遠くにミャンマーっていう国があるらしいが、おまえ、知ってるか?」
なぜ、彼らの旅はこうも唐突なんだろう。
船戸与一の取材旅行に同行するという名目で同行することになった行き先はミャンマー。
筆者は、鎖国状態だったミャンマーへ密入国を繰り返すこと8回。アヘン地帯に対する著作を出版し、それが翻訳されて海外展開された経験あり。
同行取材、ガイド役どころか、ミャンマーに正規に入国することがまず難しいと目される人物である。
ドキドキのビザ申請、入国審査を経て、入国に待ったがかかったのは、まさかの誘い主、船戸与一の方だった。
ミャンマー、正直、この国に対しては「ビルマの竪琴」くらいしか知識がない。
幕府の軍は一兵たりとてワ藩に足を踏み入れることはできず、一般のミャンマー国民は恐ろしい噂しかないワ藩へ誰も来ようとしないとはいえ、スーパー外様藩の住民の独立ぶりというか孤立ぶりはやはりハンパではない。
ミャンマーといえば悪名高き世界最大のアヘン生産地、ワ州がある国である。ワ州の状況はミャンマー国内でも悪いうわさで鎖国されている異国のように扱われていた、というのが非常に面白い。
鎖国の国に生まれ育ち「外的要素」から隔離されている彼らのほうが、いつでも自由に外国へ旅行に出かけられる日本人や他のアジア人より外国人慣れしていて、しかも気の利いた即興のやり取りがうまい。
ある意味では、日本人の悲願である「国際人」をすでに達成しているとも言える。
鎖国の中にあっても多民族国家であることが、国際人たらしめるというのは面白い。国際感覚という面から必要なのは近くに「異文化」が存在するということなのだろうか。
ミャンマーでクリスチャンというのは、たいていが少数民族だから、宗教問題と民族問題がセットになるのだ。民族と宗教の多様性、これこそがミャンマー人の国際性を養っているのではないか。
どの国であっても宗教問題と紛争はセットになっている。宗教は民族に根付いているし、場合によっては信じる神が文化を分け、民族を分ける。
同じコミュニティの中に利害の一致しない複数の宗教がある。それはもう紛争が起こる因子そのものといえよう。
近くに「異文化」があり、平和な日常生活を送るためにはその文化同士が紛争にならない、双方が不満を感じない、「あり得ないバランス」が必要な場所。
それが「国際」というものの本質なのだとしたら、国際感覚がないといわれる「日本人」は実に幸せな国の住人であるような気がする。
そもそもミャンマーの柳生家というのが突拍子もないし、旅行記の中で急に脈絡もなく徳川家たとえ話に移行するしで、えええ?と思いながら読んだのに、読了後には何となくミャンマー情勢が理解できた気がしてしまったから不思議である。エンタメ系ノンフィクション恐るべし。
ちなみに、 高橋さんの著作で一押しはどんな海外物よりも国内にある外国人を扱った「移民の宴」だったりする。
そして、「ブルガリアの薔薇」のインパクトが強すぎて、「ゲイに口説かれた人」という印象が何を読んでもついて回る。