心ゆくまで崖っぷちで読む本

中小企業診断士(登録予定)の読書ブログ

【読書341】作家の収支

 たまには話題の本から。

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家の収支 (幻冬舎新書)

 

本書のスタンスは非常にわかりやすい。

本書の内容は、小説家という仕事をする個人が、どのように、そしてどれくらいの収入を得ているのか、というデータである。

つまり、どのような仕事がいくらになるか。小説家に限らず、どのような職種の方でも自分の財布の内容を白日の下にさらす勇気はなかなか持てないのではないだろうか。その点で本書は非常にざっくばらんな内容となっている。

たとえば、

小説雑誌などでは、原稿用紙1枚に対して、4000円~6000円の原稿料がもらえる

と言ったように、実際の原稿料の話に始まり、

漫画の原稿料は、普通1枚(1頁)で6000円~1万5000円(編集者の話では、1枚5万円以上の漫画家もいるらしい)と聞いた。
文章を扱う作家が、非常に効率が良いことがご理解いただけると思う。

漫画など他の媒体と比べての費用対効果の良さ、効率の良さが述べられている。 一方で、小説など紙媒体独特のルールについても言及している。

もっとも、本の値段がそもそもほとんど厚さに比例している。人気作家であっても、本が高くなるわけではない。

むしろ、人気作家の本は単行本であってもそれほど高価ではない印象がある。数が出るため、あるいは単行本の後に文庫本で回収できるからなのだろうか。

まず単行本を出版し、その約3年後に人気のあるものが文庫になるのである。

慣例的に3年というのはなんだか面白い。面白そうな単行本があっても、発行日より3年待てるのであれば文庫本が入手できる可能性が高いと言うことか。もし売り上げがいまいちで文庫化されないのであれば、3年を待って単行本を買ってもいいかもしれない。

作品に多額の金を出せるのは、ある意味で、消費者の「質」の反映といえる。欲しい人が大勢いても、買えるのは金持ちだけになる。これに対して、小説家の人気は、あくまでも読者の「量」なのだ、ということか。

特装本や特殊の専門書でも無い限り、本の値段はおおむね一律だ。

値段が一律であるからこそ、提供される内容(質)に差が無ければ、人気にはつながらない、ある種非常にシビアな世界と言えるかもしれない。

 

本書ではさらに、作家の資質についても言及している。

最も大事なことは、多作であること、そして〆切に遅れないこと。

とはいえ、締め切りに遅れないことについては受注量をコントロールすることで何とかなるかもしれないが、多作である、というのはなかなか難しいことのように思う。

単純に筆の遅い、早いはあるだろうが、それ以上にやはり需要がなければ本にはならない。

 

…と作家の収支に関していろいろ書かれているが、もっとも印象に残ったのはこの部分。

電子書籍では、短編が5作英訳されて出版されている。この翻訳者は、作家で友人の清涼院流水氏である)。

清涼院流水氏、最近見ないな、と思ったら何をやってるの…www 「秘密屋」がすごい好きだったなぁと思い出しました。 調べたら英語教材的な本を出していてちょっと興味がわいた。

 

秘密屋 赤 (講談社ノベルス)

秘密屋 赤 (講談社ノベルス)

 
秘密屋 白 (講談社ノベルス)

秘密屋 白 (講談社ノベルス)

 

 

【読書340】ゲゲゲの女房

ゲゲゲの女房

ゲゲゲの女房

 

 故・水木しげる氏の妻、武良布枝さんの書かれたエッセイ。夫としての水木しげる氏、人としての水木しげる氏が垣間見れる。

水木さんは妖怪漫画家として、妖怪研究家として、時には妖怪そのものとして扱われてきた人物だ。
没した際は、「氏は妖怪そのものだから、肉体の死とは無関係に生き続けている」などと表されるのも多く目にした。

本書ではそんな水木氏の半生が、妻という立場から描かれている(NHKの朝の連続ドラマとしても映像化がなされたので、そちらで知っているのほうが多いのではないかと思う)。
とはいえ、布枝さんとの結婚は水木氏が39歳の時と言うから、前半生、幼少期や従軍のあった青年時代については多くは語られていない。
結婚後の紙芝居作家、貸本作家という極貧時代からブレイク、その後の後半生がメインである。

妻の目を通してみる水木しげる、武良茂は、単なる人である。
いや、水木しげると武良茂は別のもの、とも読める。
公人としての水木しげると私人としての武良茂。多忙を極め、思うようにオフタイムを確保できない中にあって、自己を二人に分離させることで、対応していたということなのかもしれない。

苦楽を共にする、という言葉があるが、共に出来る苦楽があれば、共に出来ない苦楽もある。
極貧の中にあっては、貧しい生活、作品を書くことの両方を共有できていても、ビジネスとして軌道に乗り、仕事量が増えれば、妻が作家としての水木氏に対して出来ることは減っていく。
しかも、仕事に掛かる時間が増えれば、私である時間、家族として共に居る時間も減っていくのである。

自分自身も子育てに時間をとられる中で、感じるのは喪失感か、疎外感か。ネガティブな感情であるのは間違いない。
裕福さと引き替えに、何かを失ってしまったと感じるのも無理はない。

しかし、読後にそれらのごたごたが、現在までのささいな過程に思えるのは、それらの危機を二人が乗り越えてきたからに他ならない。

氏は親兄弟や娘たちまでも自分の周りにとどめておくことを望んだという。
そこに、「水木しげる」という共同体を感じた。
自分自身であるはずの武良茂も、妻である布枝さんも、娘や親兄弟たちも飲み込んだ共同体の中で、氏はさながら妖怪たちの親分のように君臨する。

と、考えると、先に述べたような危機は二人が乗り越えたのではなく、二人とも「水木しげる」に取り込まれたように思えてきた。

やはり、「水木しげる」は妖怪そのものなのかもしれない。

 

insolble.hatenablog.jp

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【読書339】校閲ガール アラモード

 図書館本から宮木あや子さん。

校閲ガール ア・ラ・モード

校閲ガール ア・ラ・モード

 

 

前作「校閲ガール」の主人公、オシャカワこと河野悦子の周辺人物を主人公にしたスピンオフ短編集。

校閲ガール

校閲ガール

 

 宮木あや子さんの作品は非常に軽く読めて重宝しているのだが、前作の登場人物を忘れきった状態で読むには、結構つらかった。思い出した頃には話が終わってしまうので、ずっとわからないまま進む感じ。
せめて登場人物一覧を巻頭につけて欲しい。

加えて、本作の主人公は男性が多い。
前作は、河野悦子の女子っぷりに妙なリアリティを感じたけれど、本作は男性が多いせいか、話に入り込めないまま終わってしまった。

たとえば、部長エリンギの過去は、死を持って完結する悲恋として作られた悲恋だ。
本人のブログをみると、本作はアラフィフ文系男性の理想を具現化してみた、というスタンスなのだろう。(筆者の調査によると、アラフィフ文系男性は清楚でわがままな女に振り回されながら支配したいらしい。)

だけど、あまりに都合のよい話だな、と思う。
情緒不安定な女に振り回された男と、かつての面影を残したまま病みついた女が偶然にも生前に再会し、だが女は美しいまま死ぬ。女の余命が1年あったら、成り立たない話である。
女には思い出を現在として美化させられるぎりぎりの時間だけがあり、彼にはセンチメンタルになることを許す環境がある。
残念ながら私には、感傷におぼれる中年を愛でる趣味はない。
ベタベタなストーリーをエンターテイメントとして完結させるには、やはり鋭い感性や、技巧の上手さがいる。


女性のお仕事物語、は筆者にとってはもう一本の柱なのだと思う。筆者の女性のお仕事物語の結末は、大円満だったと感じることが多いように思う。
大円満は「登場人物たちが一生懸命努力してきた結果」と言えるかもしれないが、これは「おはなし」だから、それだけでは面白くない。

「雨の塔」のような耽美的な作品はもう書かれないのかなぁ、と思うと非常に残念である。
同じように女性のお仕事物語でも、「セレモニー黒真珠」にはまだあった湿った空気を是非また、と思う。

 

過去の感想はこちら↓。

insolble.hatenablog.jp

 

【読書338】ワセダ三畳青春記

お久しぶりです。生きています。

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

 

ワセダにありながら家賃は激安の1万2千円。借り主の不在期間が長くても気にしないし、なんなら勝手にもう少し広い部屋へと引っ越しだってしてくれる。三畳一間という極狭アパート野々村荘に暮らした11年記。

月日が流れても、学生時代と何ら変わらず、辺境に通い、プールに通い、時々料理をして…、その日暮らしともいえる生活を送る彼。
彼の周りを多くのもの、ほとんどのものは去って行く。時に再訪しても、それは以前の彼らではない。
かつては共にあったはずのものたちと、彼を隔てる深い溝。

諸行無常、強者どもが夢の後。

貧しいということは、どういうことなんだろうか。
家賃が激安であったとしても、彼が経済的に豊かであったとは思えない。
だけど、本書を読む限り、彼の生活に貧しさを感じることはなかった。
チョウセンアサガオやウバタマサボテンでトリップを目指したり、テレビを求めてプロレスの普及活動にいそしんだり。

誰かが去って行っても、別の誰かがいる。

そんな極狭のアパートに突如現れた恋、彼が野々村荘を出て行く恋が、急にファンタジーで、すばらしい。
辺境ライターである高野さんのバックボーンを垣間見た気がした。

 

 

【読書337】喉の奥なら傷ついてもばれない

図書館本で宮木あや子さん。

喉の奥なら傷ついてもばれない

喉の奥なら傷ついてもばれない

 

機能不全家族で育った少女が大人になった時、彼女たちはいったいどんな夫を選び、どんな家庭を築くのだろうか。
宮木あや子さんというと、連作集のイメージが強いのだが本書は短編集である。
ある者は虐待の連鎖の真っ只中におり、またあるものは「特別」を求めて不倫に手を染め、またある者は遺産目当ての結婚をしながら清楚で可憐な少女に恋をする…。

誰かのせいにすること、何かのせいにすることはとても簡単だ。
不幸な出自であること、普通とは違う家庭で育ったこと。だから仕方ない。
不幸や苦しみが目の前から遠のいても、慣れた不幸の中にいることで安心を得る。ゆえに、無意識のうちに同じ不幸の中に身を置こうとする。俗に「連鎖」といわれる輪の中に囚われた女性たち。

自己認識として不幸である以上、その人は不幸なのだと思う。そこに他人からの評価は関係ない。
「自分は不幸である」というのは実に甘美な自己認識だ。
そして家族とは、身近である分だけ、攻撃の対象にも、被害意識の原因にもなりやすい。

彼女たちに対して思うのは「あなたのその苦しみは、ほかの誰かが苦しまなければならない理由にはならない。」ということである。

愛情と呼ばれる檻につながれている人へ

本書は「不幸」な彼女たちへ向けて始まり、

その檻、意外と脆いかもしれないよ

彼女たちの「不幸」を愚かしいとあざ笑うかのような文で結ばれる。

抜け出すのは簡単。だけど抜け出した先は、はたして、今より良いと言えるのだろうか。
「不幸」でなくなった彼女たちは、「不幸」な時よりも苦しいかもしれない。
それは、はたして「幸せ」なのか?
抜け出すことを「善」とするのは、外野の独善的な価値観に過ぎない。

一方で、無自覚な彼女たちに被害を受けるもの…、たとえば虐待の被害を受ける子供が一人減るのであれば、彼女たちが檻から抜け出すことは、意味を持つ。
連鎖が止まること。そして新たな連鎖が生まれること。
自業自得で不幸の中に浸る者は別として、望まなくとも関わらざる者たちにとって、あたたかな笑みのある世界であればと思う。

題材も内容もなんとなく角田光代さん的であるが、故に、物足らなさを感じる。
作家名から、連作を期待して読んでしまった、ということもあるかもしれない。

 

宮木さんの作品では「雨の塔」が好きです。